◇25日
1時からゼミ。先生が「1963年」について発表。日本における基準法改正とソウルの超高層アパート群に関する話。日本と韓国の高層化の原点。この年は「第1回デロス会議」が行われた年でもあり、ボリューム(高層化)とモビリティ(ネットワーク化)の関連を考える上でも面白い年では?
また、「正しい」ことと「面白い」ことに関する話も出た。「正しいvs面白い」は「科学的vs文学的」「帰納的vs演繹的」「計量地理学vsラディカル地理学」など、いろいろな問題系に変換して考えることができる。「正しいこと=1つの最適解があること」に関する懐疑は、こないだの椿屋会談の時にも話題になった話であるが、最近僕の周辺では「問題に対する最適な解決策としての建築」という考え方への疑問と、それに代わる「新しい建築設計プロセス」に関する議論(アルゴリズム論等)が盛んに提出されているように思う。とても現代的。熱い議論の行方が楽しみ。ただ1つだけ留保しておきたいのは、「正しい」に対峙するものは「面白い」だけなのだろうか?ということ。そこらあたりをもうちょっと考えたい。
◇26日、27日
意外と久しぶりに「蜂の巣」と「元屋」で飲んだ。やっぱ旨い旨い。そして安い安い。特にタコスがもう…。この味とこのビールの組み合わせはもう、「正しい」!
◇28日
午後から浅草のDM事務所へ。ちょくさんと土岐さんの掛け合いが相変わらずで、なんか懐かしい。夜は森田も合流し、パスタ&スープ&ガーリックでパーティ的な感じに。この人たちの「立派な駄目な人」さ具合には学ぶところ多し。新しい仕事が入ってきたため、これから毎週それをやることになりそう。筑波的な「腐れ縁状態」がなんとも「面白い」。(決して「正し」くない!)
PFG活動再開、第2期宇宙研開始を視野に入れ始める。
「人間としていかに効率的に稼働するか」という個人テーマを思いつく。「超線形生活プロセス論』?!
◇31日
「人間として最大限効率的に稼働すること」の一環として(?)「スタディのスタディ」計画開始。建築やデザイン以外にも、様々な分野における「スタディ」「計画プロセス」について学んでいこうという気が満々。
午後、何の気なく読んだGISに関する小論が大ヒット。これは単純に(「正しい」の反対語としての意味とかではなく)面白い。空間分析の歴史的系譜に関する記述も参考になったが、「計測」「データマイニング」「可視化」「データベース」「関係性の明示」「プロセスの把握」というGISの特性(利点)になるほど〜。この6特性を勝手に個人的な興味の元で書き換えると「計量地理学」「LACMA的検索システム」「ノイラート」「深層」「2層構造都市」「モルフォロジー」となる。(←たぶん自分にしか分からない。)特に、「関係性の明示」に関しては「局地的イベント(事象)を地域全体のなかに位置づけて相対化させるという思考を醸成させたのがGISである」と書かれていた。なるほどー。GISと現代都市の問題系のリンク。計量地理学者トブラーは「すべてのものは他のすべてのものに関係するが、遠くのものより近くのものがもっと関係する」と言ったそうだ。こうした「空間的相互関係」に関して「空間的依存性」「空間的異質性」といった概念が提案されたそうなのだが(L.Anselin"Spatial Econometrics")、これも気になる。日本オペレーション・リサーチ学会の70年代の動向も気になる。「正しい」vs「面白い」vs「気になる」?
2007年10月31日水曜日
2007年10月24日水曜日
プチ整理ターム
◇23日
m1の授業で「ネットワーク」について簡単なレクチャーをさせて頂く。緊張。うまくやれたかどうか…。
その後、先生+ota氏と今後について話す。建築と地理学と経済学、カーンとGISとオトレなどなど。まだまだぼんやりとしていることが多いが、うまくまとめていきたい。帰りに後輩とたわいのない話をしていたら、なぜか原点回帰(筑波回帰?)を宣言してしまった。まあ、そんな感じで。
◇24日
先生と東大の田村さんとの話に混ぜていただく@新宿。議論を伺っていて、自分の現在の興味がちょっとだけ整理できたので、以下。
(1)「距離」に関する空間的関心を、時間地図の実践を通して都市の問題に繋げていくこと。
(2)都市のコンテクストをどのように空間におとしこんでいくか?(非「solution」としての建築)
この2点。2に関しては、まずどのようにして都市の表象化を行い、その中からコンテクストを探し出していくか、が重要。
これをmicro/macro、両極端な都市リサーチをしながら、実践していきたいのだが、んー、まだもうちょっと整理できそう。ただ「非solutionとしての建築」はちょっとしたキーワードになるかも。あとは「並列性」とか。ここに科学的超現実主義のような話がどう絡むのか。また修論関係でやっている歴史的検証をこの中にどう位置づけるのか。そのへんも含めてまたそのうち。
m1の授業で「ネットワーク」について簡単なレクチャーをさせて頂く。緊張。うまくやれたかどうか…。
その後、先生+ota氏と今後について話す。建築と地理学と経済学、カーンとGISとオトレなどなど。まだまだぼんやりとしていることが多いが、うまくまとめていきたい。帰りに後輩とたわいのない話をしていたら、なぜか原点回帰(筑波回帰?)を宣言してしまった。まあ、そんな感じで。
◇24日
先生と東大の田村さんとの話に混ぜていただく@新宿。議論を伺っていて、自分の現在の興味がちょっとだけ整理できたので、以下。
(1)「距離」に関する空間的関心を、時間地図の実践を通して都市の問題に繋げていくこと。
(2)都市のコンテクストをどのように空間におとしこんでいくか?(非「solution」としての建築)
この2点。2に関しては、まずどのようにして都市の表象化を行い、その中からコンテクストを探し出していくか、が重要。
これをmicro/macro、両極端な都市リサーチをしながら、実践していきたいのだが、んー、まだもうちょっと整理できそう。ただ「非solutionとしての建築」はちょっとしたキーワードになるかも。あとは「並列性」とか。ここに科学的超現実主義のような話がどう絡むのか。また修論関係でやっている歴史的検証をこの中にどう位置づけるのか。そのへんも含めてまたそのうち。
2007年10月23日火曜日
アイコニックなあれこれ
◇20日
昼過ぎ、プリズミックの「武井誠+鍋島千恵/TNA展」を見に行く。会場には細長い曲面机の上に、10点前後の作品の極小模型+プロジェクトブックが置かれており、それ以外の壁面は全く使用されていない。とってもシンプルな展示。あまりのシンプルさに、前々々回の藤村展のマッチョさが際立つ(?)。周辺の環境の中から次第に建築ダイアグラムが生成されていく、パラパラ漫画式のプロジェクトブックが新鮮。SANAA的ダイアグラムをアイコニックに示している?だからといって建築自体がアイコニックという訳ではないところが面白い。建築を設計する際の手触り/ジェスチャーのようなものがにじみ出ていたと思う。展覧会場にある全てのものが極端に小さいために、プリズミックの空間が広く感じた(藤村展の時は狭く感じた)。かわいらしいながらも、アイディアの明快さ・鋭さの光る展示でした。
その後、歩いてギャラリー間のCAt展に向かう。今日は2つとも男女ペア(ユニット派?)の建築家による展覧会。どちらかと言えば、フェミニンだったTNA展に比べ、こちらは計画規模といい模型の作り込み具合といい、結構マッチョ系。外観の「黒」と内観の「白」を対比させた3階の展示模型が面白いが、機能の曖昧な空間=「白の空間」と定義されているのだとしたら、個人的にはいささか疑問も残らなくもない。大きな太い矢印ではなく、無数の小さな矢印が集まり流れをつくる「fluid direction」の方向性には素直に共感。C+Aが一貫して追求してきたアクティビティと建築の関係がここでも。
こうしたヴィジュアルはルイス・カーンのフィラデルフィアでの「traffic studies」(矢印のやつ)を想起させる。カーンはそうした都市内での様々な動きが集積される場として、数年後「city tower」計画(三角形トラスがニョキニョキと昇っていくやつ)を構想するが、そこではフィジカルなネットワーク(コア)をネットワークのイメージ(3角形トラス)が覆う形となっており、都市内での様々な動きの集積体は単に建築物の「表層」を形作っているに過ぎない、という矛盾を露呈してしまっている。結果としてこの建築は、少しも「動的」な有機体としての建築物ではなく、形骸化した「動き」のイメージ(表層)に覆われたアイコニックなモニュメントとなってしまった。都市内の「動き」(mobility)を建築化する際には、常にこうした矛盾がつきまとうように思う。都市の「深層」を、建築の「深層」として建築化する手段とは何か?表層的なイメージに絡みとられない非アイコニックな建築とは何か?これは現代的な課題だと思う。
夜には、ムサビの「ノイラート展」を訪問。あまりの情報量に(そのほとんどは既に知っているにも関わらず)へばる。実際に研究会などに関わっていただけに、初めて見る感動のようなものはやや少なかったかも。入口付近のヴィジュアルや、等身大(?)のアイソタイプ人間などはとても面白いアイディアだったと思う。良い展覧会。その後、ムサビのグラフィックの人たちと飲み屋に移動。終電で帰宅。
◇21日
JIAの卒業設計大会を北原+同居人のフランス人(名前何だっけ?)と見に行く。これには去年は実際に参加し、とても多くのものを得た。今年は会場をBankArtから国際フォーラムに変えて行われていたが、正直BankArtの方が良かったなあ。来場者数は圧倒的に増えたのかもしれないが、熱気という点では、BankArtの暗い地下で行われた暑苦しい前回展の方は圧倒的に良かった。作品は、さすがにどれも完成度は高いが、「これぞ!」と思ったのは早稲田生の防災都市案だけ。しかも結局それが3年生の案だと分かり、2重に仰天。あんなに図面が掛けて、表現力があって、地に足がついていて、建築と対等な距離で付き合えている3年生がいるとは!末恐ろしい…。その他の案は、「SANNA化」がますます進んでおり、ちょっとなあという感じ。前年に有名になった卒業設計作品激似のもあり、もはやいくつかの有名卒業設計作品はポップアイコンとして消費されてきているのでは、と感じる。インパクトのある作品にも乏しく、なんだか肩すかしをくらった感じでカフェに移動。サルコジの離婚をひたすら喜び馬鹿にするフランス人の姿に、等身大な(リアルな)政治性を感じたりして、なんだか刺激を受ける。政治なんてのは、このぐらいのhotかつコミカルな距離感で付き合うものなのだ、ということを再認識。久米宏の言葉「政治を語る時は芸能を語るように語れ」を思い出す。楽しかった。
昼過ぎ、プリズミックの「武井誠+鍋島千恵/TNA展」を見に行く。会場には細長い曲面机の上に、10点前後の作品の極小模型+プロジェクトブックが置かれており、それ以外の壁面は全く使用されていない。とってもシンプルな展示。あまりのシンプルさに、前々々回の藤村展のマッチョさが際立つ(?)。周辺の環境の中から次第に建築ダイアグラムが生成されていく、パラパラ漫画式のプロジェクトブックが新鮮。SANAA的ダイアグラムをアイコニックに示している?だからといって建築自体がアイコニックという訳ではないところが面白い。建築を設計する際の手触り/ジェスチャーのようなものがにじみ出ていたと思う。展覧会場にある全てのものが極端に小さいために、プリズミックの空間が広く感じた(藤村展の時は狭く感じた)。かわいらしいながらも、アイディアの明快さ・鋭さの光る展示でした。
その後、歩いてギャラリー間のCAt展に向かう。今日は2つとも男女ペア(ユニット派?)の建築家による展覧会。どちらかと言えば、フェミニンだったTNA展に比べ、こちらは計画規模といい模型の作り込み具合といい、結構マッチョ系。外観の「黒」と内観の「白」を対比させた3階の展示模型が面白いが、機能の曖昧な空間=「白の空間」と定義されているのだとしたら、個人的にはいささか疑問も残らなくもない。大きな太い矢印ではなく、無数の小さな矢印が集まり流れをつくる「fluid direction」の方向性には素直に共感。C+Aが一貫して追求してきたアクティビティと建築の関係がここでも。
こうしたヴィジュアルはルイス・カーンのフィラデルフィアでの「traffic studies」(矢印のやつ)を想起させる。カーンはそうした都市内での様々な動きが集積される場として、数年後「city tower」計画(三角形トラスがニョキニョキと昇っていくやつ)を構想するが、そこではフィジカルなネットワーク(コア)をネットワークのイメージ(3角形トラス)が覆う形となっており、都市内での様々な動きの集積体は単に建築物の「表層」を形作っているに過ぎない、という矛盾を露呈してしまっている。結果としてこの建築は、少しも「動的」な有機体としての建築物ではなく、形骸化した「動き」のイメージ(表層)に覆われたアイコニックなモニュメントとなってしまった。都市内の「動き」(mobility)を建築化する際には、常にこうした矛盾がつきまとうように思う。都市の「深層」を、建築の「深層」として建築化する手段とは何か?表層的なイメージに絡みとられない非アイコニックな建築とは何か?これは現代的な課題だと思う。
夜には、ムサビの「ノイラート展」を訪問。あまりの情報量に(そのほとんどは既に知っているにも関わらず)へばる。実際に研究会などに関わっていただけに、初めて見る感動のようなものはやや少なかったかも。入口付近のヴィジュアルや、等身大(?)のアイソタイプ人間などはとても面白いアイディアだったと思う。良い展覧会。その後、ムサビのグラフィックの人たちと飲み屋に移動。終電で帰宅。
◇21日
JIAの卒業設計大会を北原+同居人のフランス人(名前何だっけ?)と見に行く。これには去年は実際に参加し、とても多くのものを得た。今年は会場をBankArtから国際フォーラムに変えて行われていたが、正直BankArtの方が良かったなあ。来場者数は圧倒的に増えたのかもしれないが、熱気という点では、BankArtの暗い地下で行われた暑苦しい前回展の方は圧倒的に良かった。作品は、さすがにどれも完成度は高いが、「これぞ!」と思ったのは早稲田生の防災都市案だけ。しかも結局それが3年生の案だと分かり、2重に仰天。あんなに図面が掛けて、表現力があって、地に足がついていて、建築と対等な距離で付き合えている3年生がいるとは!末恐ろしい…。その他の案は、「SANNA化」がますます進んでおり、ちょっとなあという感じ。前年に有名になった卒業設計作品激似のもあり、もはやいくつかの有名卒業設計作品はポップアイコンとして消費されてきているのでは、と感じる。インパクトのある作品にも乏しく、なんだか肩すかしをくらった感じでカフェに移動。サルコジの離婚をひたすら喜び馬鹿にするフランス人の姿に、等身大な(リアルな)政治性を感じたりして、なんだか刺激を受ける。政治なんてのは、このぐらいのhotかつコミカルな距離感で付き合うものなのだ、ということを再認識。久米宏の言葉「政治を語る時は芸能を語るように語れ」を思い出す。楽しかった。
2007年10月18日木曜日
写真と映画とGISと猫
◇13日
代官山フォーラム、写真美術館、アクシスギャラリーと立て続けに写真展を見に行く。
中でもアクシスの展示が特に良かった。2人の作家のコラボレーション(撮影・プリント)という構成には、銀塩写真の良さを伝えるというコンセプトを超えて、写真というものの「物質性」を痛感させられた。誰かが「写真というものは立体である」と言っていたけど、なるほど。
写真美術館では鈴木理策展の展示シークエンスの作り方の巧妙さ(ベタさ)にうなり、昭和の写真展での奈良原一高「王国」シリーズに感激。「無国籍地帯」も好きだけど、やっぱこっちの方が良いかも。全体的に名作のオンパレードで、良い勉強になりました。
代官山フォーラムの展示は、写真展としてはすごく美しくて良かったのだが、肝心の「現代空間の深層」について、あまり体感することができなかった気がする。身体性がないというか。それが「現代空間」なのかもしれないのだが。
◇14日
柄沢さんに誘われ、ライズで青山真治「サッド・ヴァケーション」を見ることに。感想からいえば、もう凄まじく良かった!開始2秒、最初の1カットだけでも痺れる。最初は触覚的な映画なのかなーと思っていたが、中盤あたりから怒涛の形式主義のオンパレード。「構築性」だけがズシリとのしかかってくるような、異様な構成。正直、ここまで来たら、もう役者とかストーリーとかは関係ないのでは?超構造主義的映画?最近こんな芸術には長らくお目にかかっていなかった気がする。我らがアルバート・アイラーの使い方も最高!(「ユリイカ」でも彼の「ゴースト」がかかる。)音楽の使い方に関しても、叙情性が1つも無い。というか完璧。これ以上のタイミングと選曲はないでしょう。全共闘の夢が解体してしまったあとの音楽とブライアン・ウィルソン。その後、しばしこの映画について議論するも、いつしか話は建築空間の話へ。僕がプリゴジン→藤本壮介→ロースという展開で「距離のズレ」について話をすると、「実の透明性-実の不透明性-虚の透明性-虚の不透明性」の4象限の話で返される。とても面白い。ミース、コルビュジエ、ロースの話。やはりロースはイケてる?
◇18日
この1週間ほど、卒業設計終了以来、最高に元気がよい。絶好調と言っても良いかも。ここに来てようやく?という気もするが、このまま突っ走りたい。
「ネットワーク、GIS」に関するゼミでの発表が好評でひと安心。論文の骨格と、実践への手がかりが見えてきた。ゼミ後、先生から「高さの時間地図」をつくってみては?という魅惑的な提案。それは面白そう!GISと共に、今後の実践の軸になりそう。これをうまく作れれば都市と建築を繋ぎながら、「距離の図式化」の試みをためせるかもしれない。
あと、話が飛ぶが、千住の通称「猫道」を歩いていたら「人間の距離、猫の距離」というのを思いつく。最近はもうガンガンに設計モード。「視覚」と「思考」のバランスがとれている気がする。僕の場合、これが前者に傾くと「真似→パクリ→陶酔」という自己中心モードに陥り、後者に傾くと「思考→思考→爆発」という自滅モードに陥る。このへんのバランスに気をつけながら、設計と論文を並列的に進めていきたい。
代官山フォーラム、写真美術館、アクシスギャラリーと立て続けに写真展を見に行く。
中でもアクシスの展示が特に良かった。2人の作家のコラボレーション(撮影・プリント)という構成には、銀塩写真の良さを伝えるというコンセプトを超えて、写真というものの「物質性」を痛感させられた。誰かが「写真というものは立体である」と言っていたけど、なるほど。
写真美術館では鈴木理策展の展示シークエンスの作り方の巧妙さ(ベタさ)にうなり、昭和の写真展での奈良原一高「王国」シリーズに感激。「無国籍地帯」も好きだけど、やっぱこっちの方が良いかも。全体的に名作のオンパレードで、良い勉強になりました。
代官山フォーラムの展示は、写真展としてはすごく美しくて良かったのだが、肝心の「現代空間の深層」について、あまり体感することができなかった気がする。身体性がないというか。それが「現代空間」なのかもしれないのだが。
◇14日
柄沢さんに誘われ、ライズで青山真治「サッド・ヴァケーション」を見ることに。感想からいえば、もう凄まじく良かった!開始2秒、最初の1カットだけでも痺れる。最初は触覚的な映画なのかなーと思っていたが、中盤あたりから怒涛の形式主義のオンパレード。「構築性」だけがズシリとのしかかってくるような、異様な構成。正直、ここまで来たら、もう役者とかストーリーとかは関係ないのでは?超構造主義的映画?最近こんな芸術には長らくお目にかかっていなかった気がする。我らがアルバート・アイラーの使い方も最高!(「ユリイカ」でも彼の「ゴースト」がかかる。)音楽の使い方に関しても、叙情性が1つも無い。というか完璧。これ以上のタイミングと選曲はないでしょう。全共闘の夢が解体してしまったあとの音楽とブライアン・ウィルソン。その後、しばしこの映画について議論するも、いつしか話は建築空間の話へ。僕がプリゴジン→藤本壮介→ロースという展開で「距離のズレ」について話をすると、「実の透明性-実の不透明性-虚の透明性-虚の不透明性」の4象限の話で返される。とても面白い。ミース、コルビュジエ、ロースの話。やはりロースはイケてる?
◇18日
この1週間ほど、卒業設計終了以来、最高に元気がよい。絶好調と言っても良いかも。ここに来てようやく?という気もするが、このまま突っ走りたい。
「ネットワーク、GIS」に関するゼミでの発表が好評でひと安心。論文の骨格と、実践への手がかりが見えてきた。ゼミ後、先生から「高さの時間地図」をつくってみては?という魅惑的な提案。それは面白そう!GISと共に、今後の実践の軸になりそう。これをうまく作れれば都市と建築を繋ぎながら、「距離の図式化」の試みをためせるかもしれない。
あと、話が飛ぶが、千住の通称「猫道」を歩いていたら「人間の距離、猫の距離」というのを思いつく。最近はもうガンガンに設計モード。「視覚」と「思考」のバランスがとれている気がする。僕の場合、これが前者に傾くと「真似→パクリ→陶酔」という自己中心モードに陥り、後者に傾くと「思考→思考→爆発」という自滅モードに陥る。このへんのバランスに気をつけながら、設計と論文を並列的に進めていきたい。
2007年10月12日金曜日
世界を見る解像度
□10日
学校で先生と話す。帰ってアルバート・アイラーの「ゴースト」を久しぶりに聞く。「ありうべき前衛サウンドなら一言で言える。とほうもない不協和音。」(by平岡正明)
◇11日
研究室の話し合い。今後の予定の打ち合わせ。来週いきなり発表をすることに…。焦って帰宅。
マーク・ヴィグリーの「network」に関する文献を主要ネタにしてやることにした。1963年のデロス会議の話。マクルーハンとフラーとカーンとベイコンと丹下と戸沼とワックスマンとドクシアディス。この論文はヴァーチャル空間の起源を探る試みの一環らいしが、そうした観点から読むよりも、「建築とネットワークの関係」というシンプルな観点から読んだ方が面白い。槇さんの「investigation〜」にも繋がる話かな。
歴史と都市リサーチと建築を(フラットに、とは言わないが)複数の線によって繋げていきたい。世界をいくつもの解像度で見ること。歴史/都市/建築/家具などは、世界を見る解像度の違いでしかない。(都市レベルで見たときに「mobility」として捉えられるものは、解像度を上げて建築レベルで見た時には「activity」になる。)これらを繋ぐには何が必要か?grainとmobilityの関係は?様々な解像度とnetwork。「世界をジャズとして見れば世界は震えている。」(by平岡正明)
あと、ムサビとの合同展覧会:通称「ノイラート展」が始まっている。とりあえず図録を見て思ったこと→文章は書き出しが肝心。やっぱアノ人は天才的に文章がうまいなあ。
そしてやっぱ、エリック・ドルフィーはなんともシュルレアリスム!たまらん。「シュルレアリスムはジャズの予感である。」(by平岡正明)!
学校で先生と話す。帰ってアルバート・アイラーの「ゴースト」を久しぶりに聞く。「ありうべき前衛サウンドなら一言で言える。とほうもない不協和音。」(by平岡正明)
◇11日
研究室の話し合い。今後の予定の打ち合わせ。来週いきなり発表をすることに…。焦って帰宅。
マーク・ヴィグリーの「network」に関する文献を主要ネタにしてやることにした。1963年のデロス会議の話。マクルーハンとフラーとカーンとベイコンと丹下と戸沼とワックスマンとドクシアディス。この論文はヴァーチャル空間の起源を探る試みの一環らいしが、そうした観点から読むよりも、「建築とネットワークの関係」というシンプルな観点から読んだ方が面白い。槇さんの「investigation〜」にも繋がる話かな。
歴史と都市リサーチと建築を(フラットに、とは言わないが)複数の線によって繋げていきたい。世界をいくつもの解像度で見ること。歴史/都市/建築/家具などは、世界を見る解像度の違いでしかない。(都市レベルで見たときに「mobility」として捉えられるものは、解像度を上げて建築レベルで見た時には「activity」になる。)これらを繋ぐには何が必要か?grainとmobilityの関係は?様々な解像度とnetwork。「世界をジャズとして見れば世界は震えている。」(by平岡正明)
あと、ムサビとの合同展覧会:通称「ノイラート展」が始まっている。とりあえず図録を見て思ったこと→文章は書き出しが肝心。やっぱアノ人は天才的に文章がうまいなあ。
そしてやっぱ、エリック・ドルフィーはなんともシュルレアリスム!たまらん。「シュルレアリスムはジャズの予感である。」(by平岡正明)!
2007年10月8日月曜日
集約的 - 拡散的
◇7日
21-21sightでやっている展覧会「water」に立ち寄る。前回の非常に明快・ポップで「デザイン的」だった前回展「チョコレート」に比べると、様々な解釈を呼び起こすような作品が多くなり、より「美術的」になったように感じた。
入口で配られたパンフレットがないと、いまいちコンテクストをつかみにくい作品(大きな壷の中に映像が流れている作品群とか)もいくつかあったが、水滴を操作する作品(「ふるまい」「鹿威し」)は様々な連想・空間感覚を喚起する作品で、ある意味で建築的な作品であったと思う。
特に、水の「流動性」ではなく「浮気性」に着目した前者は、「集約と拡散」という現象を通して分子としての水を体感させるというアイディアが面白い。水の水滴が離れたり、くっついたりしながら、予測不可能な動きをするのを見ていると、どうしてもその偶発的な動きの中に何か法則や構造のようなものを見つけ出そうとしてしまう。集約と拡散を繰り返す動きは、分子を連想させるだけではなく、空間内での人・群衆のようにも見えてくる。流動する群衆の中にどんな構造を見つけ出すのか。レヴィ・ストロース好きはこんな時にも影響する?
◇8日
『建築ノート1号』の中で、藤本壮介が「T-House」のスケッチの脇に「中心からの放射ではなく、周りからの集まり?」と書きつけているのを発見。「T-House」のスタディ過程を見ると、中心と周囲の室との関係をずらしながら、「中心からの放射」から「周りからの集まり」へと構成が変化していく様がわかる。この「周りからの集まり」によって構成された住宅と、遠く離れて存在する異質な諸空間が1点に集約された「ハノーヴァー万博オランダ館」(MVRDV)との違いは大きいように感じる。「T-House」では揺れ動く中心と、周縁との距離(感)が巧みに操作されているが、これは「集約的 - 拡散的」という図式では説明しきれないもの?
あと、話がとんで、トマス・ルフのミース・シリーズ(「l.m.v.d.r」とか。ミース建築の写真をデジタル操作したもの)や、トマス・デマンドの「Kabnet」(実物の更衣室を紙で再現して撮ったもの)は、自分の卒業設計の方向性にすごく近いことにも気づいた。esquire曰く「ミースの建築をベースにしながらも、デジタル技術で操作されたルフ特有のいわゆる建築写真ではない全く別の世界が生まれる。」「物質感を完全に排除された写真には、感情や親近感が入る余地もない。恒久性のない現実を写真にとどめるパラドクス。」
21-21sightでやっている展覧会「water」に立ち寄る。前回の非常に明快・ポップで「デザイン的」だった前回展「チョコレート」に比べると、様々な解釈を呼び起こすような作品が多くなり、より「美術的」になったように感じた。
入口で配られたパンフレットがないと、いまいちコンテクストをつかみにくい作品(大きな壷の中に映像が流れている作品群とか)もいくつかあったが、水滴を操作する作品(「ふるまい」「鹿威し」)は様々な連想・空間感覚を喚起する作品で、ある意味で建築的な作品であったと思う。
特に、水の「流動性」ではなく「浮気性」に着目した前者は、「集約と拡散」という現象を通して分子としての水を体感させるというアイディアが面白い。水の水滴が離れたり、くっついたりしながら、予測不可能な動きをするのを見ていると、どうしてもその偶発的な動きの中に何か法則や構造のようなものを見つけ出そうとしてしまう。集約と拡散を繰り返す動きは、分子を連想させるだけではなく、空間内での人・群衆のようにも見えてくる。流動する群衆の中にどんな構造を見つけ出すのか。レヴィ・ストロース好きはこんな時にも影響する?
◇8日
『建築ノート1号』の中で、藤本壮介が「T-House」のスケッチの脇に「中心からの放射ではなく、周りからの集まり?」と書きつけているのを発見。「T-House」のスタディ過程を見ると、中心と周囲の室との関係をずらしながら、「中心からの放射」から「周りからの集まり」へと構成が変化していく様がわかる。この「周りからの集まり」によって構成された住宅と、遠く離れて存在する異質な諸空間が1点に集約された「ハノーヴァー万博オランダ館」(MVRDV)との違いは大きいように感じる。「T-House」では揺れ動く中心と、周縁との距離(感)が巧みに操作されているが、これは「集約的 - 拡散的」という図式では説明しきれないもの?
あと、話がとんで、トマス・ルフのミース・シリーズ(「l.m.v.d.r」とか。ミース建築の写真をデジタル操作したもの)や、トマス・デマンドの「Kabnet」(実物の更衣室を紙で再現して撮ったもの)は、自分の卒業設計の方向性にすごく近いことにも気づいた。esquire曰く「ミースの建築をベースにしながらも、デジタル技術で操作されたルフ特有のいわゆる建築写真ではない全く別の世界が生まれる。」「物質感を完全に排除された写真には、感情や親近感が入る余地もない。恒久性のない現実を写真にとどめるパラドクス。」
2007年10月5日金曜日
距離の図式化
◇4日
久しぶりのゼミ。「mobility」「network」「flow」はどう違うのか。どうも最近のうちのゼミでは、(僕も含めた学生間で)このあたりの言葉がごちゃごちゃに混同されて使われている気がする。現在の文脈でこうした言葉が何を意味するのか、整理が必要では。
個人的には、都市の建築物の「volume」と人々の流動性「mobility」との関係を突き詰めることによって、「flow」としての都市というものの実態を表象化することに興味がある。
(例えば月島のような)街に混在する巨大な超高層ビル(mega socle)と、微細でノスタルジックな極小物件(micro socle)。この両極端なvolumeの混在現象は、法規・不動産・住民感情・経済などの様々な要素が絡まり合った結果できており、この現象の理由を簡潔にあらわすことは難しい。しかし、そこに「mobility」のレイヤーを被せてみることによって、「volume」(深層)と「mobility」(表層)の2層に構造化された都市の姿を表象representationすることは可能なのではないか。(また使ってしまったけど、最近どうも表層-深層という言葉では都市の2重性を的確にあらわせていない気がする。別の言葉を探さないと。)
「mob - mobile - mobility」と並べてみると分かるけれども、mobilityとはmob(群衆・下層民・暴徒)の移動性のことであって、その言葉はどこかクリティカルな響きをもってもいる。この言葉の誘惑に適度に逆らいながら、「volume」と「mobility」の関係を考えていきたい。
◇5日
昔つくった模型を作り直していて思いついたこと↓。
ロースの「ラオムプラン」は、人と人との距離を「視覚的な距離」と「物理的な距離」に2層化し、その2つの距離のズレによって当時としては全く新しい空間体験を創造したと言える。
一方、ショッピング空間におけるサイン(視覚的な要素)と商品棚(物理的な要素)は、配置的に上下に2層化されてはいるものの、サインによって視覚的に「検索」された場所の真下に探していたものがあるわけで、距離のズレは演出されていない。そこでは「物理的空間」に対する「視覚的空間」の優位がひたすら宣言されている。柄沢さんが10+1の対談で指摘していた「虚の不透明性」を念頭においてみると、「森山邸」をはじめとする現代建築の中にもこうした「視覚の優位性」(視覚的な体験のあとに、遅れて物理的な体験がやってくる)が認められる。
近代建築の幕開けを飾った「ラオムプラン」と、現代建築にみられる「虚の不透明性」の関係はどのように考えられるだろうか。「視覚的な距離」と「物理的な距離」の関係は、その手がかりになりえるか。距離の図式化。「検索性」と「迷宮性」。「戦略的空間」。
なにか言葉が欲しいけれども、まだ整理できないので、このへんで。
久しぶりのゼミ。「mobility」「network」「flow」はどう違うのか。どうも最近のうちのゼミでは、(僕も含めた学生間で)このあたりの言葉がごちゃごちゃに混同されて使われている気がする。現在の文脈でこうした言葉が何を意味するのか、整理が必要では。
個人的には、都市の建築物の「volume」と人々の流動性「mobility」との関係を突き詰めることによって、「flow」としての都市というものの実態を表象化することに興味がある。
(例えば月島のような)街に混在する巨大な超高層ビル(mega socle)と、微細でノスタルジックな極小物件(micro socle)。この両極端なvolumeの混在現象は、法規・不動産・住民感情・経済などの様々な要素が絡まり合った結果できており、この現象の理由を簡潔にあらわすことは難しい。しかし、そこに「mobility」のレイヤーを被せてみることによって、「volume」(深層)と「mobility」(表層)の2層に構造化された都市の姿を表象representationすることは可能なのではないか。(また使ってしまったけど、最近どうも表層-深層という言葉では都市の2重性を的確にあらわせていない気がする。別の言葉を探さないと。)
「mob - mobile - mobility」と並べてみると分かるけれども、mobilityとはmob(群衆・下層民・暴徒)の移動性のことであって、その言葉はどこかクリティカルな響きをもってもいる。この言葉の誘惑に適度に逆らいながら、「volume」と「mobility」の関係を考えていきたい。
◇5日
昔つくった模型を作り直していて思いついたこと↓。
ロースの「ラオムプラン」は、人と人との距離を「視覚的な距離」と「物理的な距離」に2層化し、その2つの距離のズレによって当時としては全く新しい空間体験を創造したと言える。
一方、ショッピング空間におけるサイン(視覚的な要素)と商品棚(物理的な要素)は、配置的に上下に2層化されてはいるものの、サインによって視覚的に「検索」された場所の真下に探していたものがあるわけで、距離のズレは演出されていない。そこでは「物理的空間」に対する「視覚的空間」の優位がひたすら宣言されている。柄沢さんが10+1の対談で指摘していた「虚の不透明性」を念頭においてみると、「森山邸」をはじめとする現代建築の中にもこうした「視覚の優位性」(視覚的な体験のあとに、遅れて物理的な体験がやってくる)が認められる。
近代建築の幕開けを飾った「ラオムプラン」と、現代建築にみられる「虚の不透明性」の関係はどのように考えられるだろうか。「視覚的な距離」と「物理的な距離」の関係は、その手がかりになりえるか。距離の図式化。「検索性」と「迷宮性」。「戦略的空間」。
なにか言葉が欲しいけれども、まだ整理できないので、このへんで。
2007年10月2日火曜日
科学的超現実主義の予感
◇28日
柄沢さんと電話。プリゴジンと藤本壮介建築の関係について。藤本建築(特に2人の空間・3人の空間…)はプリゴジンの正確な解釈であり、もはや新しい建築空間概念は人文系の思想からではなく、物理学系の概念から生まれるのではないか。人文系は実は70年代以降、理数系の発見に追いつけない状況が続いているのではないか。プリゴジンを人文学系のパラダイムにおいて語らなければならないのでは。などなど刺激的な話。
プリゴジンの「散逸構造」や「分布関数」といった諸概念は、限りなく遠くにあるモノ(空間)同士を一瞬にして繋げる(くっつける)ものではないか、という指摘にドキッ。すごい。これでMVRDVのハノーヴァー万博オランダ館(全く異なる=遠くにある空間同士が無造作に積層されている位相幾何学的空間)の面白さと限界が、またさらに分かった気がする。モダニズム(インターナショナリズム)あるいはグローバリズムの空間を「遠くのものを近くにもってくる空間」と理解し、「近くのものを遠くへ輸送する空間を目指さねばならない」と語ったのは原広司であるが、プリゴジンの再解釈によって、最も身近にあるモノを最も遠くにあるモノと共鳴させるような空間概念を論理的に構築できないだろうか?
原さんが人文系の概念を引用しながら上記のような思考に到達したとするならば、そこに物理学系の概念を重ねていったのが藤本さんの建築なのかもしれない。
◇29日
プリゴジンとシュルレアリスムについて考える。プリゴジンの提出した概念によれば、時間の不可逆性の導入によって、これまでの物理学における「確実性」は終焉をむかえ、「偶然性」が支配する確率論的な空間が出現するが、その「偶然性」や「確率」は(「分布関数」などによって)科学的に記述(予測)することが可能となる。これは、飛躍して考えれば、シュルレアリスムが追求した「シュルレアル(超現実)」な世界が科学的に記述可能になった状態を暗示しているかのようにも思われる。
以前、藤村さんのフリーペーパーにも書いたことだが、30年代の日本において批評家・竹中久七は、雑誌「リアン」の中で「科学的超現実主義」という魅惑的な概念を提出した。この思想についてはいずれ詳しく書こうと思うが、プリゴジンの著作を読んでいると、度々この「科学的超現実主義」という概念を思い出す。
プリゴジンとシュルレアリスム。「散逸構造」(プリゴジン)と「構造」(レヴィ・ストロース)。「関係性」(藤本壮介)と「デペイズマン」(原広司)。その類似性と差異を考えることは、なんだか示唆的だ。まだはっきりとはしないが、「科学的超現実主義」を手がかりに両者のブリッジの可能性を探ってみたい。
◇10月1日
なんとなく気づいたことなのだけど、そういえば「シュルレアリスムの建築」と言われているもの(キースラーの「エンドレス・ハウス」、トリスタン・ツァラの子宮内建築など)は、往々にして「胎内」「流動性」「変化」「エロス」がテーマではあるが、「コラージュ」や「デペイズマン」の影は希薄である。OMAやMVRDVなどの、現代においてシュルレアリスムからの影響が垣間見える建築にはその影が色濃いのに、20-30年代の本家本元には不思議と、シュルレアリスム絵画に見られる強烈さやコラージュ感がない。
僕が大好きな、シュルレアリスム都市論3作(ブルトン『ナジャ』、アラゴン『パリの農夫』、ジュリアン・グラック『ひとつの町のかたち』)においてもその印象は同様である。
シュルレアリストが描いていた都市像と、レヴィ・ストロースのそれとの相違は実は結構あって(それがニューヨークへ向かう船上でのブルトンとレヴィ・ストロースの接近と離反の原因ともなるような気がするが)、前者は拡散・散逸的(1つの事象から複数の事象が生起する)であり、後者はより集約的(複数の事象の中に1つの糸=「構造」が通っている)である。前者は上記の30年代シュルレアリスム建築に近く、後者はOMAやMVRDVの建築に近いような印象を受ける。
またしてもまとまらないが、なんとなくの予感。
全く関係ないが、夜、TVを見ていて、長崎の原爆関係の資料館で働く19才のドイツ人の姿に感銘を受ける。
柄沢さんと電話。プリゴジンと藤本壮介建築の関係について。藤本建築(特に2人の空間・3人の空間…)はプリゴジンの正確な解釈であり、もはや新しい建築空間概念は人文系の思想からではなく、物理学系の概念から生まれるのではないか。人文系は実は70年代以降、理数系の発見に追いつけない状況が続いているのではないか。プリゴジンを人文学系のパラダイムにおいて語らなければならないのでは。などなど刺激的な話。
プリゴジンの「散逸構造」や「分布関数」といった諸概念は、限りなく遠くにあるモノ(空間)同士を一瞬にして繋げる(くっつける)ものではないか、という指摘にドキッ。すごい。これでMVRDVのハノーヴァー万博オランダ館(全く異なる=遠くにある空間同士が無造作に積層されている位相幾何学的空間)の面白さと限界が、またさらに分かった気がする。モダニズム(インターナショナリズム)あるいはグローバリズムの空間を「遠くのものを近くにもってくる空間」と理解し、「近くのものを遠くへ輸送する空間を目指さねばならない」と語ったのは原広司であるが、プリゴジンの再解釈によって、最も身近にあるモノを最も遠くにあるモノと共鳴させるような空間概念を論理的に構築できないだろうか?
原さんが人文系の概念を引用しながら上記のような思考に到達したとするならば、そこに物理学系の概念を重ねていったのが藤本さんの建築なのかもしれない。
◇29日
プリゴジンとシュルレアリスムについて考える。プリゴジンの提出した概念によれば、時間の不可逆性の導入によって、これまでの物理学における「確実性」は終焉をむかえ、「偶然性」が支配する確率論的な空間が出現するが、その「偶然性」や「確率」は(「分布関数」などによって)科学的に記述(予測)することが可能となる。これは、飛躍して考えれば、シュルレアリスムが追求した「シュルレアル(超現実)」な世界が科学的に記述可能になった状態を暗示しているかのようにも思われる。
以前、藤村さんのフリーペーパーにも書いたことだが、30年代の日本において批評家・竹中久七は、雑誌「リアン」の中で「科学的超現実主義」という魅惑的な概念を提出した。この思想についてはいずれ詳しく書こうと思うが、プリゴジンの著作を読んでいると、度々この「科学的超現実主義」という概念を思い出す。
プリゴジンとシュルレアリスム。「散逸構造」(プリゴジン)と「構造」(レヴィ・ストロース)。「関係性」(藤本壮介)と「デペイズマン」(原広司)。その類似性と差異を考えることは、なんだか示唆的だ。まだはっきりとはしないが、「科学的超現実主義」を手がかりに両者のブリッジの可能性を探ってみたい。
◇10月1日
なんとなく気づいたことなのだけど、そういえば「シュルレアリスムの建築」と言われているもの(キースラーの「エンドレス・ハウス」、トリスタン・ツァラの子宮内建築など)は、往々にして「胎内」「流動性」「変化」「エロス」がテーマではあるが、「コラージュ」や「デペイズマン」の影は希薄である。OMAやMVRDVなどの、現代においてシュルレアリスムからの影響が垣間見える建築にはその影が色濃いのに、20-30年代の本家本元には不思議と、シュルレアリスム絵画に見られる強烈さやコラージュ感がない。
僕が大好きな、シュルレアリスム都市論3作(ブルトン『ナジャ』、アラゴン『パリの農夫』、ジュリアン・グラック『ひとつの町のかたち』)においてもその印象は同様である。
シュルレアリストが描いていた都市像と、レヴィ・ストロースのそれとの相違は実は結構あって(それがニューヨークへ向かう船上でのブルトンとレヴィ・ストロースの接近と離反の原因ともなるような気がするが)、前者は拡散・散逸的(1つの事象から複数の事象が生起する)であり、後者はより集約的(複数の事象の中に1つの糸=「構造」が通っている)である。前者は上記の30年代シュルレアリスム建築に近く、後者はOMAやMVRDVの建築に近いような印象を受ける。
またしてもまとまらないが、なんとなくの予感。
全く関係ないが、夜、TVを見ていて、長崎の原爆関係の資料館で働く19才のドイツ人の姿に感銘を受ける。
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