2008年4月22日火曜日

ストレンジャー

恵比寿ガーデンシネマで観た『ダージリン急行』の余韻覚めやらぬ永続的な興奮/幸福状態を、月曜の朝にいつものように「体制」「人員」といった言葉によって遮断されてしまったことへの決然たる反抗の意思を込めながら、葬儀の前にインドの集落を歩く3兄弟と共に流れ出すあの素晴らしく弛緩したキンクス「ストレンジャー」(We are the Two, We are One〜♬)へのオマージュ。

「僕らはいつだって10分遅れだったじゃないか」
(ジョーン・オブ・アーク ”Olivia Lost”)

「見知らぬ人に唾を吐きかけろ/僕を追い出してくれ/ほろ苦い他人のように/追い出してくれ/太陽が昇るように」
(ペイブメント ”Spit on a Stranger”)

恐ろしく絶妙な速度で「鈍い」スローモーションの中を、キンクス「This Time Tomorrow」をバックにエイドリアン・ブロディがダージリン急行に飛び乗った後、振り返ったカットで、ダラダラと手を垂らしながら、ペイブメントも顔負けのあまりにも感動的なダメさを醸し出すビル・マーレイに100点!いかにもステレオタイプ的な白人紳士の傲慢さが、だらしなく垂れ下がる手と、エイドリアンへと投げかけられる切なく幼く情けない超複雑な表情によって「無化」される瞬間は、ある意味『ユリイカ』でバスが寂れた街角の交差点に差し掛かったところで、ジム・オルークの「ユリイカ」が突如としてさりげなく流れ出す瞬間と同等かそれ以上に感動的。もちろん3兄弟の演技と、編集の巧さと、キンクスの超絶的タイミング&音量での使用も素晴らしい。けど、あのビル・マーレイの手の脱力感と「This Time Tomorrow」とあのエイドリアンの表情のコンビネーションは反則だよ〜、もう。

「現実の中で意味性からの完全なる解放などあり得ない。が、そのうちの1つか2つには音楽が奏でられるということのリアリティーが拘束を解くよう要求できる、と思うのである。」
(Amephone/Tsuki no Wa ”真昼顔” )

「映画は、1つの画面に2人の人間がいるのを映すだけで、希望の存在を表現することができる。何故なら人は、ひとりではないというだけで、少なくとも最悪ではないから。」
(犬童一心)

2008年4月18日金曜日

イームズと愉快な仲間たち

ピーター・ブレイク
ラカトン&ヴァッサル ×3
リチャード・ハミルトン
デビット・ホックニー
イームズ ×3
トム・ウェッセルマン ×2





















2008年4月17日木曜日

限界建築論(2)

最近なにかと騒がれているチベット&聖火リレー問題ですが、夕方のニュースを見ていたら、パリを訪問中の日本人観光客が、ノートルダム大聖堂とか凱旋門などを使って(旗を掲げたりして)チベット問題に抗議している市民の様子を見て、「文化遺産なんだからもっと大切にあつかって欲しいですよね」とか言っていた。なんじゃその感想。マジ?
団塊ジュニアの僕的には、大聖堂に市民がよじ登って旗を振ってるのとかメチャ感動するんですが(笑)。まあ、左翼的感情は脇に置いておいても、文化遺産というものは市民の日常的感情(ポリティクス)の発露の場として機能するからこそのものなんじゃないの?なぜ綺麗な状態のまま静的に保存され、人も寄り付かなくなった「文化遺産」を見て、「やっぱり趣があるわね」「時代を感じるわ」とかいう感想を平気で言い放てるのでしょう?貧困な想像力。建築の社会性ということを考えるなら、つまり建築がいかに都市インフラとして機能しているかという観点から考えるならば、チベット問題抗議の旗が振りかざされ、周囲を警官に包囲された状態のノートルダム大聖堂こそが本当の文化遺産なのだ。社会の貧困や市民のポリティクスを表象することの出来ない建築なんて、建築ではない!などとプチ憤慨。
とはいえ、僕は「本当の」建築だけでなく、めちゃキッチュな「ニセモノ」の建築や芸術にも大いに発狂しちゃうのですが。

それにしても…リキテンシュタインに無反応な研究室に失望…。
「助けを呼ぶくらいなら、このまま沈んでしまった方がマシだわ」(リキテンシュタイン「溺れる少女」より)
いやー泣ける〜!デュシャンの「階段を下りる裸婦」と良い勝負。超傑作ですよ、あの絵は。ポップカルチャーの海に溺れかけている少女が発する悲しいまでに乾いた叫び。助けを呼ぶ(=自らの存在を主張する)くらいなら、このまま大衆の海の中に沈んでしまう(=匿名のままでいる)方がマシだわ。うひー、ポップアート万歳!!ポップアートのポの字も分からないモダニスト達よ、サヨウナラ〜。

というわけでイームズ邸。ビアトリス・コロミーナのイームズ邸論が結構面白い。

まずはちょっと長いですが、イームズはある講演でこんなことを言っています。
「サーカスは、とても豊かで色彩あふれ、表面上は自由気ままに見えるノマド的な社会である。サーカスではすべてが限界を超えて可能性を追い求める。しかし勝手気ままな自由に見えるもののなかに、私たちはほとんど信じがたいほどの規律を見いだすのである。出来事の厳密なヒエラルキーが存在し、緊張の中で他の可能性の選択が排除される。その結果としてひとつの出来事が次の出来事を自動的に導きだすことになる。テントの中のサーカスの設計は、他の何よりもアクロポリスのプランに似ているのである。」

続いてコロミーナの言葉。
「イームズ夫妻は…自己表現というよりは、制約の中での訓練として理解された日常生活の演劇的なスペクタクルこそが建築なのだと考えていたのである。…もしデザインがデザイナーの自己表現ではないとしたら、デザインとは住宅に痕跡を残していく居住者の日常生活のことである。日常生活のうつろいゆくものすべてが空間を占め、空間を定義する。イームズ自邸にあっては、リアルな建築はその中の収集品を絶えずアレンジし直す行為の中に見いだされ、リアルな空間は、絶えず日常生活のディテールのなかに見いだされる。イームズにとっては、朝食のテーブルの用意からサーカスのパフォーマンスまで、すべてが建築なのだった。誰もがデザイナーなのだった。」

そしてまた、イームズはミースの建築そのものよりも、ミース建築の展覧会に興味をもち、影響を受けていたという。つまり、ある合理的かつ規律的なフレーム(=ショーケース)の中にバラまかれたモノ(=収集品)は、全てが等価なモノとして扱われており、その等価なモノ同士を並び替え、コラージュし、レイアウトすることこそがデザイン(建築行為)なのである、ということだろう。フレームの内部においては、玩具から椅子、机、扉に至るまでのあらゆるスケールのものが等価であり、そこに佇む主体はあらゆるものの表面/ディテールに次々にズームイン/ズームアウトすることを余儀なくさせられる(←いかにもコロミーナ的)。
サーカス、規律、収集品、痕跡、コラージュ、ショーケース、パフォーマンス…。オモロいね〜。
勝手に展開すれば「神奈川工科大工房v.s.イームズ邸」「コールハースv.s.イームズ」「ダカール・ジプチv.s.イームズ夫妻」とかいう議論だってできそう。あとは、ちょうど同時代に発表されたリチャード・ハミルトンとかピーター・ブレイクのポップアート絵画と一緒に眺めると、すごくよく理解できるんじゃないでしょうか。

2008年4月5日土曜日

限界建築論(1)

今まで某ベンヤミン王&某キッチュ王と飲んでいたからかもしれないけど、結構、最近考えていたことを一気にまとめて言い放ってしまうことができそうな気がしてきたので、メモ的な意味も含めて書き始めてみます。自分を棚にあげた「批評」や「理論」ではなく、今年1年の実践の基盤となる考え方(美学!)を整理できれば。(ちなみに今日出た話だと、非張力構造と動的ダイナミクスの話と、マイクロ・ポップ&マイクロ・ポリティクスの話が個人的に一番オモロかった、けどそれはまたそのうち。)

まずは簡単に議論の前提を。

超絶的に面白い石子順造の「キッチュ論ノート」「模型・模造の美学」「『芸術品のぼろ』の論理」によれば、キッチュとは「伝習的な一面と今日的な他面とを同時にあわせもちながら、生活←→表現←→文化と相互にわたる曖昧だが確かな意味・価値のカテゴリーが、この語によって、かろうじてその幅と厚みにおいて言い当てられる」ものである。例えば、銭湯に必ず描かれている富士山などの背景画や、謎めいた古い商店の看板、手書きの小絵馬などは、「大衆」の中に脈々と伝承されている民俗学的・呪術的側面(ex.柳田国男)の表出であり、それはキッチュの「伝習的な一面」である。一方で、有名女優のピンナップ写真や大衆雑誌の表紙絵、ダサい広告やテレビCMなどは、現代的なメディアの中で発展してきた表現であり、キッチュの「今日的な一面」である。彼はグリーンバーグの論文「アヴァンギャルドとキッチュ」を例に挙げながら(その他にもローゼンバーグ『新しいものの伝統』やマクルーハン『機械の花嫁』、ソンタグ『反解釈』などにおけるキッチュという用語の使用例をチラつかせながら)、「近代」の価値観を対象化し、それを乗り越える「現代」的な価値体系を生み出し得るものとして、このキッチュという言葉に注目を寄せる。

『キッチュ論』の表紙には次のような言葉が掲げられており、これは石子順造のキッチュ観を最もよく表している。
「すなわちキッチュは、呪術性と実用性などの要素を含み、美的でありながらいっそう倫理的で、個別的には礼拝的価値の対象でありながら一般的な日常生活、行為のありようの様式であり、時代とともに生まれまた消えながら、共同幻想をあやうく自己幻想に収束させようとするメディアとしての力学構造を持った表現全般の呼称である、と。」
「表現の問題として言い換えるなら、リアリティとアクチュアリティの統合と考えてもいいと思う。」

あんまり説明していると先に進めないので、次に、もうひとつだけ凄まじく面白い指摘をしている箇所を引用。
「むろん芸術品のボロに関して、近代とくに今世紀に入ってからのその氾濫は、複製技術の驚異的な発達、模造あるいはパロディという表現の論理と構造、そしていわゆる大衆社会の成熟、コミュニケーションの情報化、さらに観光旅行の普及さえも、したがって総じて近代社会の爛熟そのものが主要な動因である。最後の観光旅行の普及に関してちょっとだけふれるなら、キッチュが、まさに旅行者にとっての『街頭からガラクタを蒐集してくること』として商品化されるプロセスは無視できない。東京タワーを始め観光地にはどこでもお土産用の商品がうず高く積まれているが、そうしたなかに日本のイメージの日本を、それこそ『フジヤマ・ゲイシャ』ふうに見いだすことは容易である。」

一方、(これも「キッチュ論ノート」の中で触れられているけど)鶴見俊輔によれば、「経験全体の中にとけこむような仕方で美的経験があり、また美的経験の広大な領域の中のほんのわずかな部分として芸術がある。さらにその芸術という領域の中のほんの一部として『芸術作品』がある。いいかえれば、美が経験一般の中に深く根をもっていることと対応して、芸術もまた、生活そのものの中に深く根をもっている」という。これを前提として彼は、芸術全般を「純粋芸術(ピュア・アート)」「大衆芸術(ポピュラー・アート)」「限界芸術(マージナル・アート)」の3つに分類し、前2者よりも「さらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品」としての「限界芸術」に注目する。大多数の専門家でない人たちが「積極的な仕方で参加する芸術のジャンル」である「限界芸術」の例としては、日常生活のみぶり、労働のリズム、竹馬、盆栽、替え歌、絵馬、年賀状、七夕などが挙げられている。

以上を前提として、「A:建築の社会性」、「B:収集、ツーリズム、キッチュ」、「C:イームズ邸(機能主義v.s.シュルレアリスム)」の3つについて考え、この3つの興味(それぞれ「経済&リサーチ系」「単純に日常的に好き系」「美学&設計系」)を「限界建築論」としてまとめてみたい、ようなみたくないような。少なくとも今日の帰宅電車内では、この3つの話が完全に1つのストーリーとして統合された一瞬があった、ようななかったような。Aには「槇文彦、チャールズ・ムーア、Tokyo Econography」を、Bには「ジェイムズ・クリフォード、ジョン・アーリ、月島もんじゃ通り」を、Cには「コールハース、ベンヤミン、ラカトン&ヴァッサル(あるいは「広さ」)」を絡めながら考え、そして実践する。うまくまとまんないかもしれませんが、それもまた一興ということで。コツコツたまに書いていきます。

2008年4月3日木曜日

エクレクティック・キッチュ

「都市論」への興味が日に日に失せている。都市というものを語ったり、リサーチしたり、モデル化したりすることには相変わらずかなりの興味があるけれども、それを「都市論」として語ることに何だか冷めてきた。家具/建築/都市/社会を横断しながら、それをある共通の見解のもとで眺めた時に見えてくるもの、みたいなことに興味が移行。ここでいう「共通の見解」っていうのは、たぶん「美学」だと思う。

窓とかドアとかが鬱陶しくて仕方が無い。イームズ邸やラタピ邸(ラカトン&ヴァッサル)、難波さんのいくつかの作品に共通して散見されるような、「操作」や「構成」が皆無な軽やかな状態をうまく語る言葉が欲しい。それはやっぱりモダニズム/ポストモダニズムの美学に関する議論から生まれてくるのだろうか?でもジェイムソンが言うように、そもそもポストモダニズムというものは社会構造の転換を語るために取り上げられた概念であり、それを(安易に?)美学に結びつけて語ってしまうことには抵抗がないでもない。ポストモダニズム=複数性の美学、コラボレーションの美学、断片の美学、非英雄的物語の美学っていうのは何度も繰り返し語られてきたクリシェであるし、それがベンチューリとかチャールズ・ムーアとかの「キッチュの美学」へと流れ込み、それと並行して「批判的地域主義」「ダーティリアリズム」が(どちらかといえば非キッチュの側から)生まれてきた、というのが一般的なポストモダン美学の理解のような気もするけれども、それって本当にそうなんでしょうか?社会構造と美学。『時間の種子』を読んでそのあたりを考える。

チャールズ・ムーア!そういえば先日、何気なくつけてたテレ東の午後のロードショーでムーアの「イタリア広場」が貧しい労働者達の溜り場として描かれていたのを思い出す。個人的に大好きな「シーランチ」は、よくその配置や外観などが「ポストモダニスト・ムーアが内在させていた意外な(暖かみのある)側面の発露」みたいな感じで語られるのだけど、あの外観と内観の差異、そこにこそもう一度注目すべきなんじゃないの?というかそもそも、ムーアの作品を「ポストモダニズム」という曖昧なくくりの中で総括してしまってよいのだろうか?「ポストモダンな身体」って何だろう?ポストモダン建築を身体的に読解/経験してみるとどうなるんだろう?「筑波センタービル」は違うよ。というわけで、コーリン・ロウ「コラージュ・シティ」とチャールズ・ムーアに再注目中。その中間にジェイムズ・クリフォードを挟んでみると…。

ハイ・モダニズムの美学。アドルノ、グリーンバーグの美学。不協和音。アドルノにとってのジャズは「厳密な意味において商品」であり、ただ黒人性を装っているだけの退行的で中途半端な音楽で、その即興演奏法は集団の権威に迎合し一体化するという点において「全体主義的音楽」の兆候を示しているという。また、グリーンバーグにとってのシュルレアリスムとは「『外部』の主題を取り戻そうとする反動的傾向」であり、ポップ・アートとは「趣味の歴史における単なる新しいエピソードの1つ」であるという。他者、集団、外部、趣味といったものを排除し、ひたすら個人の主観的自律性、ひいては芸術の自律性を体現するべく純粋言語、純粋音楽(例えばジョン・ケージ)へと向かったモダニズム美学。そしてそれへの反逆として、モダニズムにおいて排されたものを芸術の中に取り込むべく用意されたポストモダニズム美学。その際に、自明のものとして設定されている、モダニズムv.s.ポストモダニズムという構図。この構図は常に怪しい。そしてまた、「他者、集団、外部、趣味」が「複数性、断片、非物語、コラージュ」へと結びついてポストモダニズム美学を形成していく過程。その過程こそが最も怪しい気がする。それってシュルレアリスムの安易な一般的理解と同じじゃないのかなあ。ちなみにアドルノは、ヨーロッパ演奏旅行中のエリック・ドルフィーによる伝説の無伴奏バス・クラリネットをどう評するのだろう?やっぱり「シュルレアリスムはジャズの予感である」と語った平岡正明は圧倒的に鋭い。

というわけで、とりあえず実践していきたいことは、
アカデミック→「Tokyo Econography」を通じた経済的地形のモデル化
マニアック→モダニズム/ポストモダニズム美学の解釈と見落とされた美学の発見
ポップ→家具つくったりコンペやったりDMで設計したり、的な
日常生活→酒を週4日に減らす&節約
みたいな感じ。