最近なにかと騒がれているチベット&聖火リレー問題ですが、夕方のニュースを見ていたら、パリを訪問中の日本人観光客が、ノートルダム大聖堂とか凱旋門などを使って(旗を掲げたりして)チベット問題に抗議している市民の様子を見て、「文化遺産なんだからもっと大切にあつかって欲しいですよね」とか言っていた。なんじゃその感想。マジ?
団塊ジュニアの僕的には、大聖堂に市民がよじ登って旗を振ってるのとかメチャ感動するんですが(笑)。まあ、左翼的感情は脇に置いておいても、文化遺産というものは市民の日常的感情(ポリティクス)の発露の場として機能するからこそのものなんじゃないの?なぜ綺麗な状態のまま静的に保存され、人も寄り付かなくなった「文化遺産」を見て、「やっぱり趣があるわね」「時代を感じるわ」とかいう感想を平気で言い放てるのでしょう?貧困な想像力。建築の社会性ということを考えるなら、つまり建築がいかに都市インフラとして機能しているかという観点から考えるならば、チベット問題抗議の旗が振りかざされ、周囲を警官に包囲された状態のノートルダム大聖堂こそが本当の文化遺産なのだ。社会の貧困や市民のポリティクスを表象することの出来ない建築なんて、建築ではない!などとプチ憤慨。
とはいえ、僕は「本当の」建築だけでなく、めちゃキッチュな「ニセモノ」の建築や芸術にも大いに発狂しちゃうのですが。
それにしても…リキテンシュタインに無反応な研究室に失望…。
「助けを呼ぶくらいなら、このまま沈んでしまった方がマシだわ」(リキテンシュタイン「溺れる少女」より)
いやー泣ける〜!デュシャンの「階段を下りる裸婦」と良い勝負。超傑作ですよ、あの絵は。ポップカルチャーの海に溺れかけている少女が発する悲しいまでに乾いた叫び。助けを呼ぶ(=自らの存在を主張する)くらいなら、このまま大衆の海の中に沈んでしまう(=匿名のままでいる)方がマシだわ。うひー、ポップアート万歳!!ポップアートのポの字も分からないモダニスト達よ、サヨウナラ〜。
というわけでイームズ邸。ビアトリス・コロミーナのイームズ邸論が結構面白い。
まずはちょっと長いですが、イームズはある講演でこんなことを言っています。
「サーカスは、とても豊かで色彩あふれ、表面上は自由気ままに見えるノマド的な社会である。サーカスではすべてが限界を超えて可能性を追い求める。しかし勝手気ままな自由に見えるもののなかに、私たちはほとんど信じがたいほどの規律を見いだすのである。出来事の厳密なヒエラルキーが存在し、緊張の中で他の可能性の選択が排除される。その結果としてひとつの出来事が次の出来事を自動的に導きだすことになる。テントの中のサーカスの設計は、他の何よりもアクロポリスのプランに似ているのである。」
続いてコロミーナの言葉。
「イームズ夫妻は…自己表現というよりは、制約の中での訓練として理解された日常生活の演劇的なスペクタクルこそが建築なのだと考えていたのである。…もしデザインがデザイナーの自己表現ではないとしたら、デザインとは住宅に痕跡を残していく居住者の日常生活のことである。日常生活のうつろいゆくものすべてが空間を占め、空間を定義する。イームズ自邸にあっては、リアルな建築はその中の収集品を絶えずアレンジし直す行為の中に見いだされ、リアルな空間は、絶えず日常生活のディテールのなかに見いだされる。イームズにとっては、朝食のテーブルの用意からサーカスのパフォーマンスまで、すべてが建築なのだった。誰もがデザイナーなのだった。」
そしてまた、イームズはミースの建築そのものよりも、ミース建築の展覧会に興味をもち、影響を受けていたという。つまり、ある合理的かつ規律的なフレーム(=ショーケース)の中にバラまかれたモノ(=収集品)は、全てが等価なモノとして扱われており、その等価なモノ同士を並び替え、コラージュし、レイアウトすることこそがデザイン(建築行為)なのである、ということだろう。フレームの内部においては、玩具から椅子、机、扉に至るまでのあらゆるスケールのものが等価であり、そこに佇む主体はあらゆるものの表面/ディテールに次々にズームイン/ズームアウトすることを余儀なくさせられる(←いかにもコロミーナ的)。
サーカス、規律、収集品、痕跡、コラージュ、ショーケース、パフォーマンス…。オモロいね〜。
勝手に展開すれば「神奈川工科大工房v.s.イームズ邸」「コールハースv.s.イームズ」「ダカール・ジプチv.s.イームズ夫妻」とかいう議論だってできそう。あとは、ちょうど同時代に発表されたリチャード・ハミルトンとかピーター・ブレイクのポップアート絵画と一緒に眺めると、すごくよく理解できるんじゃないでしょうか。