昨日の夜、とある人が日暮里の韓国人街について話していて
「僕はね、韓国と言ったらアレだよ、朝鮮軍だよと思って嫌悪していんだけれどもね、
韓国に旅行に行った時にね、なんだこれは日本と全く一緒じゃないか、と思ったんだね、
違いも何もなくて、ただ日本と同じじゃないかと思ったわけでね、
それで、うん、やっぱり日暮里にあるそうした場所のね、見方がちょっと変わったわけなんだよね」
と言っていた。なんか、グッと来てしまった。
帰り道、仲間と別れて終電へ走るサラリーマンが、何とも言えない素晴らしい表情をしていて、
それはたぶん笑顔だった。
人が「素晴らしい時間を過ごすこと」には何の意味もない。
人が「美しい空間のなかに存在すること」にも何の意味もない。
「どんな美しい空間をつくりあげるか」とか
「どうやって豊かな時間を獲得するか」とか
そんなことは、少なくとも東京という街にとっては全く無意味だと思う。
時系列になんて、何の意味もないし、何の豊かさもない。
この瞬間、この一瞬に、全く異なる存在同士が、全く交わることなく、同じ世界に並置されていること。
ある個人の中では、全く異なる時間同士が、全く交わることなく、同じ存在の中に並置されていること。
空間的にも、時間的にも、絶対に触れ合わないこと。
ただひたすらに、異なるモノが並置されていること。
私は今、この瞬間に生きていて、別の場所では私とは全く無関係に、別の存在が生きている。
私は今、この瞬間には生きているが、別の瞬間では死んでいて、また別の瞬間では小学校に通っている。
そんな、空間も時間も死に絶えた世界の中での、絶対的な並置。
ある、空間的/時間的な断面の中に、無数の差異がプカプカと浮かんでいるような状態。
そんなあり様だけが、なんだか、街っぽいなあと、良い感じだなあと思うのです。