2009年6月25日木曜日

冗談建築

建築とは、人を笑わせるツールである。

というのは冗談ですが、最近、一番興味があるのは、人を笑わせるような情けなさと馬鹿馬鹿しさを持った建築を「計画」すること。

コメディ的要素、ギャグ的要素、ナンセンス的要素、馬鹿的要素。
不完全さ。足りなさ。情けなさ。平凡さ。嘘っぽさ。

「計画された建築」には絶対にあってはいけない、そんな要素や雰囲気を、計画すること。
だって、パーフェクトにカッコいいところなんかに住みたくねえよ。

我がアパートはと言えば、そんな笑える要素の宝庫。

階段が狭くて急過ぎる。
吸気レジスターの位置がありえない。
風呂に網戸が無い。
ベランダに面したサッシに網戸のレールが無い。
電線に触れることが出来る。

などなど。
全て我がアパートの誇りです。
トレードマークです。

「住まう」っていうのは、そんな不完全な要素の数々を、毎日の習慣の中でカスタマイズしながら、笑い飛ばしていくってことだと思います。

美しい空間なんて冗談でしょ。
完璧な空間なんて冗談でしょ。
自然体の空間なんて冗談でしょ。
僕は、建築で人を笑わせたい。

というのは、冗談です。

ロス・キャンペシーノスは歌う。
「僕たちは皆、速読マシーンだ!!!」

2009年6月21日日曜日

ボコノン教記念日

昨日は朝から晩まで異常にボコノン教的な祝祭感に包まれた1日でした。


まず、昼には『トロピック・サンダー(史上最低の作戦)』を。
もう、これ、ここ数年の中で最高の映画でしょ!!
最初っから最後まで、何から何まで馬鹿。ナンセンス。ヴォネガット。

戦争、アメリカ、映画、メッセージ性、感動、真実。
それら全てをあまりにも低俗過ぎるジョークに載せて嘲笑う、スーパーヴォネガティック・コメディ!
世界中の全ての「真実らしきもの」のパロディ。

あー最高。大爆笑でした。ホントくだらねー!

頭の中で、一瞬、ヴォネガット『スローターハウス5』と並びました。
でも、すぐに思い直したけどね(笑)。
さすがにヴォネガットに失礼じゃないか、と。

でも、絶対ベン・スティラーは『スローターハウス5』を意識してるよー。絶対!!
さすがはテネンバウムス・ブラザーズですな。
もう当分の間は、コメディ映画しか見たくないなあ。見れないなあ。
シンプル・ジャック!!


で、夜には土浦で飲酒会。
「久々にフクダさんと飲む」飲み会のはずだったのに、ハイボールを飲み過ぎてグダグダになったエミちゃんの独壇場に。

んで、帰りのガラガラの常磐線の中で、グダグダのエミちゃんに延々「あんたは嘘が足りない!もっと嘘つかなきゃダメだよ!もったいない!やっぱ嘘つかなきゃ!」とか大声で絡まれる。

エミちゃんにボコノン教の話なんかしたことないし、このブログを読んでるわけでもないし、そんな話、全然したことないのに!
あの神がかったボコノン教的フレーズの連呼は何なんだー、一体??

身体の奥底から、自然にボコノン教的啓示が沸き出してるの?
もう、大混乱&大爆笑。

やはり、神ですな。
00年代のボコノン。ホントに尊敬してます。

2009年6月20日土曜日

How are You Today?

狂騒前夜

ロス・キャンペシーノス!!
の話題は、とりあえず今日も置いておこう。

だって、本当に騒いじゃいそうだよ。

だって、青春真っただ中のビーチボーイズが、ペイブメント並みに演奏が下手で、ジョーン・オブ・アーク並みに全ての楽器がズレて、ティム・キンセラ並みの素っ頓狂な歌声で、リップス並みのベッタベタのメロディをグダグダに歌い上げたら、どうなると思う?

Sentimental Movies♬
これぞ21世紀版ビーチボーイズ『Party』!

って、今にも騒いじゃいそうだ。
待て!
ヴォネガットのことを何か書かないと。

というわけで、ボコノンは言う。
「人はだれでも休息がとれる。
だが、それがどれくらい長くなるかは、だれにもわからない。」

あー、なんとか絞まった。

2009年6月19日金曜日

We Are All Accelerated Losers

ロス・キャンペシーノス!!
の話題は、とりあえず今日は置いておこう。

だって、なんか騒いじゃいそうだよ。

さて。
夢で会いましょう。

今宵、電車の中吊りに、ある激情型のJ-POPスターが「怒りのエネルギーは、いつもプラスにかえてきた。」と語っているのを見た。

怒り、恨み、悲しみ。
激情型3原則。
青春と呼ばれる時期には、欠かせない代物たち。

そのカッコイイ決めゼリフを見ていて、フと、今の自分がプラスにかえようとしているものは何だろうか?と考えた。

そしたら、すぐに思いついた。
「悔いのエネルギーはいつもプラスにかえてきた」
「妬みのエネルギーはいつもプラスにかえてきた」
「諦めのエネルギーはいつもプラスにかえてきた」

毎日、何かを悔い、妬み、すぐに諦める。
毎日、何かを悔い、妬み、すぐに諦めたふりをする。
劇場型3原則。

あるボコノン教徒は言う。
「理解しようなんて思うんじゃないよ。
理解したふりをすればいいんだ。」

We Are All Accelerated Readers♬
あー、もー、ロス・キャンペシーノス!!
目がまわる、目がまわる、目がまわる。

2009年6月18日木曜日

もやしまドリーム

最近、もやしを食べていない。

もやしを食べなくなったということは、何を意味するのだろうか?
もやしを食べなくなった僕の身体は、本当に大丈夫なのだろうか?
僕に食べてもらえなくなったもやしは、ちゃんと売れているのだろうか?

もやし。もやし。もやし。
もやしを食べなくなったということは、大人になったということなのでしょうか?

さて。
夢で会いましょう。

ヴォネガットは言う。
「成熟とは苦い失望だ。治す薬はない。治せるものを強いてあげるとすれば、笑いだろう。」

この「笑い」を「もやし」に換えることも、可能です。

2009年6月15日月曜日

ボコノン教的幻影を見たか?

今宵、千住の空は大号泣。

もう、あり得ないぐらいの超特大スコール!
ほぼ全ての人が、一瞬で去るであろうこの惨事を避けて、駅の中で号泣が終わるのを待つ中、ひとりニヤケながら嵐の雨の中へと飛び出す。

全てのマンネリズムは、このような瞬間的な非日常のために、ある!!

全身ずぶ濡れ、
街には誰も歩いていない、
そして勿論BGMはビーチボーイズ!!

「Tell Me Why You Cry ♬
And Why You Lie To Me ♬」

はるかサン・ロレンゾまで続く大空よ。
なぜそんなに泣いているんだ?
そしてどうして僕に嘘をつくんだい?

ワハハ、最っ高!!!!
なんてボコノン教的な瞬間なんだ!!!!

「『ところが、そうじゃない。』私はつぶやいた。
部屋がかしいだようだった。
壁や天井や床が、つかのま無数のトンネルの口に変貌した。
時間を超越してあらゆる方向にむかうトンネルだった。
時空の全ての瞬間、さまよう人類のすべてが一体化するボコノン教的幻影を、わたしは見た。
『そうじゃないんだな。』幻影が去ると、わたしは言った。」
(ヴォネガット『猫のゆりかご』)

ふふふ。「そうじゃないんだな。」
ピース。

2009年6月13日土曜日

トラルファマドール星人は時空の後方を振り向きピースする

「歴史がわたしの正しさを証明してくれる。」

と辞任と共に語った政治家がいるみたいだ。
そんでその人は、一般的に結構支持を受けているらしい。

「歴史」って何だよ?
「正しさ」って何だよ?
「証明」って何だよ?

「正しさ」だって。そんな幻想、さっさと床下排水しちゃえばいいのに。



これと同じような話で、建築の「正しさ」とか「時代性」みたいなものを主張することに、僕は興味が持てない。

「今の時代はこうなんだから、今の建築はこうあるべきだ。」
という論法は、コルビュジエの時代以来、ずっと建築家たちの常套句であり続けてきたと思う。

でも、それって上に書いた政治家と何が違うんだろう?
言っていることが、どうも僕には同じように聞こえてしまう。

「歴史がわたしの建築の正しさを証明してくれる。」

そんな風に聞こえてしまったりする。
僕にとっては。あくまでも。

だから、やっぱり「実験的」であったり「挑発的」であったりするものは好きだけれども、「前衛的」であるものには最近はサッパリ興味がない。

建築はある「時代」の中に作られるのだから、その「時代」について十分すぎるほど思考し、その思考を建築に反映させるべきであると思う。
でも、その時に、その建築の「正しさ」とか「根拠」とか「成立基盤」とかを「時代」に求めるのは、違うと思う。
それってなんか、「時代性」という名を借りた新種のPC(政治的妥当性)みたいだ。

「前衛」に立つってことは、自らの思考や振る舞いの「根拠」を、「時代」とか「歴史」とかに求めている、ってことじゃないのかな。
それってすごく変だよ。とか思います。



ちなみに表題は、「あらゆる根拠を断固拒否して、時代の後衛に立て!」というようなニュアンス。

「そうすれば憧れのヴォネガット様やマルクマス様に、一歩くらいは近づけますよ。」というようなニュアンス。

「今後も閲覧数ゼロになるまで、嫌というほどボコノン教のことを語りますよ。」というようなニュアンス。

ボコノンは言う。
「おかしな旅の誘いは、神の授けるダンス・レッスンである。」
後衛万歳。ファタ・モーガナ!

マチカネフクキタル

「ここまで来たんだから、やらないでどうする。
あと100メートルでダービーが終わってしまうのに。」
(河内洋)

自分の中で、競馬ブームが完全に再燃している今日この頃。
2000年にアグネスフライトで念願のダービージョッキーになった、名手・河内洋の名言。

やっぱ名言はよいね。競馬はよいね。
ベタだ。ヴォネガティックだ。泣ける。。。

下の写真は、10年ほど前に僕が熱狂していたマチカネフクキタル様。

サイレンススズカを後方からぶっちぎった神戸新聞杯も、見事に差しきった京都新聞杯も、南井の豪腕が炸裂した菊花賞も、もちろん号泣ものでしたが、何と言ってもこの馬は、菊花賞の後、全く勝てなくなってからが好きでした。熱狂しました。

もう全然勝てなくなって、人気もなくなっちゃったマチカネフクキタルが、大外一気でメジロフライトとかを置き去りにする夢を何度も見たなあ。見たなあ、夢。あー。マキバオー。

2009年6月10日水曜日

マンネリズモ

毎日をマンネリ化させたい。

明日は今日と全く同じ時間に起き、
全く同じ朝飯を食べ、
全く同じ時刻にあくびをして、
何から何まで完璧に今日と同じ動作をしたい。

全く同じ服。
全く同じ会話。
全く同じ時刻。
全く同じ嘘。

どんな些細なことでもいいから、とにかく毎日毎日、規則正しく反復させたい。
もはや自分の意志で動いているのか、いないのか、分からなくなるくらいまで、何もかもを反復させたい。

「モダン」というものを、軽く2回転くらい蹴飛ばして、もう一度拾い上げてみると、そんな快楽がボロボロとこぼれ落ちてくる気がするんだけど、なんか要するに、そんな感じでしょ?

「変化?キミの言うことは僕にはよく分からないね。」

2009年6月7日日曜日

偉大なるブリヴィット

「これはアメリカの一天才が書いた非常に偉大な書物です。
私は過去6年間に渡って、この傑作を生み出すために懸命の努力を払ってきました。
度々うめき声を発しては暖房用のラジエーターに頭をぶつけました。
この本のことを考えるあまり、泣きながらニューヨーク市内のあらゆるホテルのロビーを歩き回っては、グランドファーザー・クロックのはらわたの中に握りこぶしを突っ込んだものです。

これは驚嘆に値する新文学形式です。
この書物はあまりにも幅広く、奥行きも深いので、兄バーナードが少年の頃、しきりにやっていた無線電信の実験を連想させます。
…この本も確かにそういう種類の傑作です。
だから、感受性豊かな人々に対する全周波帯攻勢に対して、新しい名前を考えだすべきだと思います。
私は『ブリヴィット』という名を提案します。
少年時代の仲間たちが『1ポンド用の袋に2ポンドのうんこ』と定義した語です。

この本よりもっと簡単だけれども、虚構と事実とを結合させた本のことを、やはりブリヴィットと呼んでも、私はかまいません。
そうなれば、ニューヨークタイムズ・ブックレヴューの編集者は、ベストセラー・リストに第3のカテゴリーを設ける必要性を痛感するでしょう。
私の考えでは、それはずっと以前から必要とされていたカテゴリーです。
もしブリヴィットだけのリストができれば、ブリヴィットの作家たちは、単なる小説家や歴史家の縄張りを荒らす必要がなくなるでしょう。

しかし、その喜ばしい日がくるまで、この本はフィクションとノンフィクションの双方で、上位争いのリストに載せられるべきだと、私は偉大な作家のみが持つ特権として、あくまで主張いたします。
ピューリッツァー賞に関して言うならば、この本は小説部門、戯曲部門、歴史部門、伝記部門、ジャーナリズム部門の各賞独占という超グランドスラムが狙えるはずです。」

(ヴォネガット『パームサンデー』まえがき)

もう、何も言うことなしです。
最高です。僕もブリヴィット・デザインができるようになりたいです。
尊敬してます。ヴォネガット様。
今日も嘘に励みます。

2009年6月6日土曜日

静かな笛は音も立てずに

「本書に真実は一切ない。」

という前書きの後、

「フォーマを生きるよるべとしなさい。
それはあなたを勇敢で、親切で、健康で、幸福な人間にする。」

という有名なボコノン教の教義が添えられた『猫のゆりかご』。
その本文は、こんな調子で始まる。

「私をジョーナと呼んでいただこう。
両親はそう呼んだ。
というか、ほぼそのように呼んだ。
両親は私をジョンと名付けたのである。」

さて。
最近はムーミンが気になります。
小説家の青木淳吾が気になります。
激情系J−POPを聞いている人が気になります。

変化は望みません。
劇場型世界の構築を望みます。

2009年6月5日金曜日

有益な宗教

あーーーー、死にそうだ!!
首の音がマズい。。。

こんな時はヴォネガットに限る!
というわけで、今夜も我が教本『猫のゆりかご』を開く。

今日開いたページにはこう書いてある。

「この本をボノコン教布教のパンフレットにする気はない。
しかし一応ここで、ボコノン教徒の立場から読者に警告を与えておきたいと思う。
『ボコノンの書』は、こんな文章で始まっている。
『私がこれから語ろうとする様々な真実の事柄は、みんな真っ赤な嘘である。』
ボコノン教徒としての私の警告は、こうだ。
嘘の上にも有益な宗教は築ける。それが分からない人間には、この本は分からない。
分からなければ、それでよい。」

あーーー、泣く!何度読んでも号泣!!
嘘の上にも有益な宗教は築ける!

世界中の人たちが、ボコノン教の真っ赤な嘘に少しでも触れたならば、世界は今よりほんの少しだけカラフルなものになるのに。
ファタ・モーガナ!

2009年6月1日月曜日

ボコノン教入門(実践編)

あー、首が痛い。頭がぐるぐるする。

「目がまわる、目がまわる、目がまわる」。
これはボコノン教の基本用語である。

しかし、本当に目がまわりだすと、なんだか不安だ。
でもこれもサン・ロレンゾ共和国へと続く、ボコノン教の試練なのだと思えば、何とでもなる。

ボコノンは言っている。
「さよならを言っておけば、まず間違いない。」

不安だ。。